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市原さんは1936年7月、長崎市の繊維・綿問屋の次男として生まれた。45年8月9日午前11時2分、米軍が投下したプルトニウム型爆弾は、高度わずか503メートル付近で爆発した。その時、小学3年だった市原さんは、爆心地から約3・8キロの自宅の窓際で、母に勉強を教えてもらっていた。「突然、いくつもの太陽が一瞬に輝いたような閃光(せんこう)に包まれた」。母が市原さんの首を押さえ、机の下に押し込んだかと思った瞬間、ガラスがバリバリと飛び散り、周りが見えなくなった。庭でうるさく鳴いていたセミや鳥の声もぴたりとやみ、生き物の気配がなくなった。
2人に大きな外傷はなかったが、肉体は放射線にむしばまれた。母は2年後、37歳で結核のため逝去。市原さんも高校2年の夏、結核と診断され休学。1年遅れて明治大に進学し「さあ勉強だ」と思った矢先の5月、以前からの発熱と倦怠(けんたい)感が悪化、首にリンパ腫が見つかった。大学は半年で退学せざるを得なかった。「いつも何かしようと思うと邪魔された」
リンパ腫が完治し関東学院大に再入学。25歳で卒業し、製鉄関連会社に就職した。職場で5歳年下の富子さんに出会い、将来を誓い合う仲に。相手の親からは「被爆者に嫁がせることはできない」と言われたが、反対を押し切り27歳で結婚。「これからは妻のため働くぞ」とやる気に満ちていたが、絶望的な現実を知らされる。
なかなか子供ができず、病院で検査を受けると「精子が動いていない」と宣告された。「なんとか子供がほしい」と週2回、不妊治療の注射を受け始めた。副作用は聞いていたが、吐き気や極端なけだるさは想像以上だった。10週間耐えたが、限界を感じ「やめたい」と打ち明けた。当時24歳だった富子さんはいつもと変わらない様子で「苦しい思いをさせてまで子供は結構です」といたわってくれた。「あれほど切なく、情けないと思ったことは人生でなかった」。母親になりたかっただろう妻を思うと、心が痛んだ。
その後も病魔は襲い続ける。40歳で重い胃潰瘍になり胃を3分の2摘出。70歳の時には心臓の2割が壊死(えし)していると判明。血流を維持する管を2本、冠動脈につけた。
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「愛する人と結婚しながら、どんな治療も及ばず、子供ができないと告げられた苦しみがわかりますか」。定年後、千葉県原爆被爆者友愛会で事務局長を務める傍ら、語り部活動を始めた市原さん。昨年、ワシントンDCで開かれた反核運動者の交流会で、米国人約50人を前に講演した。
それまで人前では口にしなかった不妊の苦しみを初めて語り、高ぶる心で「人類は決して核とは共存できない」と訴えた。「一つの病気が完治しても7~8年で再び私の体にいたずらを始めるのです。放射線は『時限タイマーの付いた死に神』なのです」
聴衆は立ち上がり「自国のかつての過ちを謝りたい」と述べた。真摯(しんし)な言葉にそれまでの強い気持ちがすーっと消え、涙が流れた。「反核を訴える気持ちがやっと理解してもらえた」とそれまでにない充実感を覚えた。
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米国での講演を終え、そろそろ語り部は引退しようと考えていた時、福島第1原発事故が起きた。水素爆発でモクモクと白煙が上がる映像を見て「被ばくの恐怖が再び現実のものとなった」と思った。食品による内部被ばくの恐怖に翻弄(ほんろう)される人たちを見ながら、原爆の後遺症に苦しみ続けた日々が思い浮かび、疲労感が募った。
そして今、心の多くを占めるのは、体が小さい分、大人より大きな影響を受けるであろう子供たちや胎児のことだ。「核の危険を知る自分が、なぜ核廃絶への執念を原発には持たなかったのか。私は潤沢に電気を使い、発電の現場で何が起こっているのか考えなかった」。自らの苦しい被爆体験は笑顔を交え、穏やかに語ってくれた市原さんだが、表情を一変させて原発に目を向けなかった自身への後悔を語った。
「これ以上目を背けたくない。放射線を浴びて生きることはどういうことなのか、脳が正常に動いて口が動く限り語り続ける」という。
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市原さんのように当時の記憶が残る被爆者から話を聞ける時間は今しかない。その現実が重くのしかかった。市原さんは松戸市の80歳の男性を紹介してくれた。=つづく
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