新たな委員の長谷川三千子・埼玉大学教養学部教授は、右翼のナショナルセンターといわれている「日本会議」の代表委員、また、「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者である。
また、渡辺利夫・拓殖大学学長・東京工業大学名誉教授は、日本教育再生機構の代表委員・設立発起人であり教科書改善の会世話人でもある。
ご存知のとおり、森田健作知事は、日本教育再生機構の代表委員・設立発起人であり、日本会議と深い関係がある。
さらに、瀧田敏幸・自民党県議は、男女共同参画に対し、自らのブログで「保守政治家として私は断固、「NO」を唱え闘うつもりだ」と豪語している。
第2次行動計画の骨子は「女性も男性も、人として尊重され、その人らしく生きることが出来、それぞれが個性を認めえあえる社会、そして、平等な社会の実現をめざします」。
この基本理念が、「男女ともに認め合い、支え合い、元気な千葉県の実現をめざします」に変えられました。
発言の中でも「学校における男女平等教育・・・あくまでも、男女はそれぞれの特性があり、平等はそぐわない。
共同参画が大本だから、変えるべき」「審議会などへの女性の進出についても目標値を設定する必要はない」など、第二次策定時との違いは歴然としている。
この動きを運動と世論で阻止し、男女平等をすすめる必要がある。
千葉県男女共同参画推進懇話会のメンバー
1.設置の目的
男女共同参画社会の形成に関する施策の企画及びその推進についての意見をいただくため、千葉県男女共同参画推進懇話会を設置しています。
千葉県男女共同参画推進懇話会設置要綱(PDF:67KB)
2.委員の構成
(任期:平成22年7月1日~平成24年5月31日)
有識者
長谷川三千子 埼玉大学教養学部教授
原田壽子 立正大学名誉教授
渡辺利夫 拓殖大学学長・東京工業大学名誉教授
増谷信一 柏駅周辺防犯推進協会会長
大川玲子 日本産婦人科医会千葉県支部理事
松永敏子 (社)千葉県看護協会会長
綾部立子 アグリライフちば会長
中井節子 生活協同組合コープネット事業連合
鈴木洋 千葉県小学校長会会長
関口喜一 日本労働組合総連合会千葉県連合会副事務局長
花澤和一 (社)千葉県経営者協会専務理事
瀧田敏幸 千葉県議会議員
岡田幸子 千葉県議会議員
【2009年12月県議会】
日本共産党 みわ由美議員
自民党提出「選択的夫婦別姓のための民法改正に反対する意見書(案)」への質問への答弁・再質問(12月22日)
答弁者 自民党・瀧田敏幸
自由民主党を代表いたしまして、日本共産党、三輪議員の御質問にお答えいたします。
この議会、私、一般質問をさせていただきまして、その際、ジェンダーフリーについても勉強させていただきましたので、そういったものを踏まえまして御答弁させていただきたいと思います。
まず、1番目の先進国で同姓を法律で強制しているのは日本だけであり、国連からも是正勧告を受けていることをどう受けとめているのかという質問についてでございますが、その前に、先進国で同姓を法律で強制しているのは日本だけという質問の前提について、我々とは事実認識が異なっていることについて、まず申し上げなければなりません。確かに規定上、すべての夫婦は同じ姓を名乗ることが規定されているので、同じ姓を名乗るよう強制されているという理屈は可能かと思います。では、子供が生まれたら、名前をつけることを強制されているとか、親の姓を名乗るよう強制されていると言うでしょうか。それは単に、そのような規定であるということを強制であるという言葉で言いかえただけで、言葉によって与えるイメージを操作しているだけにすぎません。そもそも夫婦が同姓であることと夫婦が別姓であることは、個々の夫婦が自由に決められるべきものであるという前提がなければ、夫婦同姓を定めた規定が強制であるとは言わないはずです。いずれにせよ、法律上、個人が自分自身の姓について何らかの権利が認められていると考えること自体、根拠はどこにもないと私は考えます。少し理性的に考えればわかると思いますが、姓は他者との関係性によって自動的に決まるものであって、本人の意思によって決まるものではないからであります。
お尋ねの件についてでございますけれども、ほぼ同内容で、日本共産党の石井郁子前代議士が平成16年6月9日に、政府に対し質問主意書を提出されております。同年6月29日、内閣総理大臣、小泉純一郎名の答弁書がありますので、引用させていただきます。「民法(明治二十九年法律第八十九号)第七百五十条においては、夫婦は婚姻の際に定めるところに従い夫又は妻の氏を称するものとされているが、この規定は、夫又は妻の氏のいずれを称するかを夫婦の選択にゆだねていることから、男女の平等の理念に反するものではなく、女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約に違反するものではないと考えている。」との答弁でございました。私も、この政府見解と同じ考えであり、答弁とさせていただきます。
2番目といたしまして、相互の愛情によってのみ結びついた男女が築く家庭が可能になる社会を否定するのかとの質問でございますが、おっしゃられている意味が全く理解できません。我が党の提出した意見書案のどこにそのようなことが書かれているのか、私は今聞いて理解できませんでした。そもそも相互に愛情があるなら、同一の姓の共有に何ら問題はないではないかと私は考えます。先進国の夫婦同姓は、祖先の英知から成長した歴史的な制度であり、それが男性にとっても女性にとっても幸福の最大化がもたらされることが広く正しく、長い年月において了解されているものと認識するものであります。傲慢な一握りの人々の意識と共産主義イデオロギーに基づく発想には正当性はないものと考えるものであります。
次に行きます。3番、法律的な不平等が解消されるだけでなく、日常生活において男女平等が実現されなければならないとの指摘は、日本社会にも当てはまることではないのかとのことでありますが、この指摘は、いつ、どなたが、だれに対して行ったものでしょうか。このことについても、日本共産党さんと我が党では見解が異なります。そもそも先ほど申し上げた政府答弁にもあったとおり、民法第750条の規定は男女平等の理念に反するものではなく、法律的な男女の不平等とは認識しておりません。また、日常生活において男女平等が実現されなければならないとの指摘は、日本社会にも当てはまることではないのかということでありますが、一般論で言えば、そのとおりと申し上げます。
ただし、そもそも不平等とか差別とはどういうことなのでしょうか。それは本人の意思や考えに関係なく、一方的に不利な扱いを受けることのはずであります。男女の間で夫婦の氏が選ばれるのに差があるのは、どちらの氏にしてもよいと定めた法律に問題があるからなのでしょうか。どちらを選んでもよいと言われた結果、どちらかに結果が偏るとするならば、そちらが選ばれる何らかの理由があるということで、それが選ばせている側の責任、すなわち法律に問題があるというわけではありません。
繰り返しになりますが、形式論理学的に申し上げましても、平等は担保されていると考えるのが自然であります。もっと妻の旧姓を名乗る夫婦がふえるべきだという考えを持つこと自体は自由ですし、そういう考え方があってもいいのですが、それがすなわち、現行の民法が不平等とか不公平とか差別だということにはならないと私は考えます。
4番目の質問でございます。夫婦別姓の国で大量虐殺が次々と起こっているのかとの質問でありますが、質問の趣旨がよく理解できません。我が党の意見書案を読んでいただければわかるはずですが、そういったことは述べておりませんし、考えてもおりませんので、意味の理解できない質問に対しては答弁を控えさせていただきます。
次に、5番目の質問です。自民党政権がポル・ポト一派を支援したことへの反省はないのかとの質問でありますが、質問4と同様、本意見書案と何ら関係性も認められないため、答弁は控えさせていただきます。
日本共産党 三輪由美議員 2回目の質問
御答弁いただきましたけれども、全くまともにお答えいただいていないと、こう言わざるを得ません。一番思いますのは、瀧田さんは基本的な文書、お読みになったんでしょうか。女性差別撤廃条約、それから民法の改正について、自民党時代の法務大臣の答申、要綱、本当に読んでいらっしゃるんでしょうかと言わざるを得ませんね。女性差別撤廃条約第16条、ここでは再三―先ほど小泉首相の答弁のことを言われましたけども、違うんです。全くこちらに違反をしているから、世界から大変な批判を受け、是正の勧告を受けたばかりなんですよ。国連の女性差別撤廃条約、当たり前のこの条約について認識を問いたいです。これを是とされているのでしょうか、それとも非とされるんでしょうか。本当に基本的な問題ですので、自民党さんの見解、伺いたいと思います。ちなみに女性差別撤廃条約をつくられて30年、自民党時代に批准して、もう25年になるんですから、きちっとこの点お答えをいただきたいと思います。
それから、自民党のポル・ポト政権に対する支援の問題、意見書にあなたが自分で書いていらっしゃるじゃないですか。自民党のポル・ポト政権支援、これは1978年8月12日ですよ。イエン・サリ副首相、外相の肩書で自民党の園田外務大臣が会談しているじゃないですか。この点について、自民党のポル・ポト政権支援は明らかじゃないか、はっきりとお答えください。
答弁者 瀧田敏幸
まず、お読みになったのかということでございますけれども、これは全くもって失礼な話で、この答弁をするに当たりまして、適宜勉強させていただきました。
それから、違反しているから批判を受けてきたと。この国連是正勧告に対して、先ほどの答弁、御納得されないということで、是か非かお答えいただきたいということでございますけれども、これは同じ答弁、繰り返しになりますから、是か非かということで言いますと、先ほど申し上げたとおりでございます。
以上。
(「どっち」「是なんですか」と呼ぶ者あり)
答弁者 瀧田敏幸
これは全くもって、小泉さんの言ったとおり……。
(「非ですか」と呼ぶ者あり)
瀧田敏幸(続) だから、聞いてください。明らかに現行民法というのは、差別とか、そういうものを助長するということは一切ないという認識ですので、これは答える以前の問題であります。
それから、ポル・ポト政権についてもいろいろおっしゃられておりますけれども、この意見書に関することで支援する云々という文言は一切出ておりません。そういったことをよく御認識いただきまして、この夫婦別姓の件とポル・ポト政権支援云々というのは全く関係がないというふうに認識しておるわけで、これについては御答弁は先ほど申し上げたとおりでございます。
日本共産党 三輪由美議員 3回目の質問
御答弁いただきましたけれども、ポル・ポト政権のことは全く答えられない。自民党さん、まず自分の党の歴史をしっかりと勉強していただきたい。世界の流れに逆行し、国内の女性たちの苦しみにも全く目を向けない、まさに20世紀の異物とも言うべき時代錯誤の自民党さんだと私は申し上げなければなりません。本意見書案が万一採択されれば、これは県政に重大な禍根を残すでありましょう。実に恥ずかしい。撤回を強く求めたいと思います。皆さん、ぜひ撤回させましょう。
男女共同参画を考える会(自民党県連主催)で
長谷川三千子氏が講演
平成15年1月16日(木)午後1時より千葉市内(東横インポートスクエア)において開催いたしました、「男女共同参画を考える会」(自由民主党千葉県支部連合会主催)の講演内容を掲載いたしました。
主催者挨拶 堀江秀夫政務調査会長
【司会・谷田川 元 委員長】
県連が主催いたします公開の講演会にお越しいただきまして誠にありがとうございます。
私は男女共同参画検討委員会の委員長を務めております佐原市選出県会議員の谷田川元と申します。今日の司会進行役を務めますのでよろしくお願いいたします。
今日は是非公開の場で、条例案の推進派と慎重派の専門家の方々に来ていただいて、公開の討論会を開きたいと、そういうことで企画してまいりました。
しかし、残念ながら、条例推進派の方から、是非この公開討論会に応じていいというお話は、今日現在頂いておりません。
詳しい話はまた後ほどさせていただきますが、少なくとも2月12日が2月県議会の始まりでございます。
ですから、その前までに是非日程の調整がつくならば条例推進派の方々に是非公開討論会に応じていただきたいと、そういう手紙を出しております。
ですから、そういったご返事があれば改めて条例推進派と慎重派の皆さんの公開討論会ができるものと希望している次第でございます。
そういった事情で、今日は予定を急きょ変更いたしまして、千葉県の条例案について非常に問題があると指摘されていらっしゃいます長谷川先生と高橋先生にお越しいただきまして、お二人の先生から講演をしていただき、そして、その後に質疑応答という形を取りたいと思います。
それではまず主催者であります自民党県連の政調会長である堀江秀夫県会議員からごあいさつを申し上げます。
(拍手)
【堀江 秀夫 政務調査会長】
皆さん、こんにちは。
ただいまご紹介いただきました政調会長の堀江であります。
今日は「男女共同参画を考える会」ということで開催をいたしましたところ、このように多くの方々がご参集をいただきまして、本当にありがとうございます。
そして今日は長谷川先生、高橋先生のお二人にお願いをいたしましたところ、快くお受けを頂きました。
そして、今問題になっております県執行部の出されました男女共同参画条例について、あるいはこれから自民党として作ろうとする自民党案、これの参考にということでお願いをしてございますので、皆さんもいろいろと勉強していただきたいと考えております。
千葉県としても、自民党としても、素晴らしい条例を作って、そして県民の方々に喜ばれるような、そういった条例を作るべく努力をしているところであります。
どうか皆さんの今後のご指導とそしてご協力を心からお願いを申し上げまして、あいさつに代えさせていただきます。
本日は誠にご苦労さまでございます。
よろしくお願いします。
(拍手)
【司会・谷田川 元 委員長】
それでは早速でありますが、まず長谷川三千子先生から講演をさせていただきたいと思います。
若干、私の方から長谷川先生をご紹介させていただきます。
長谷川先生は、現在、埼玉大学の教授であられます。
専門分野は哲学(比較思想)、そして日本文化論であります。
東京大学文学部を卒業後、昭和62年から現在の埼玉大学の教授をお勤めになっておられます。
特にこの男女共同参画問題に関しましては、文化問題、フェミニズム批判という形で活発に発言されておられます。
ちなみに先生の祖母に当たられる方が作家の野上弥生子さんであります。
そういった形で、今日は男女共同参画の千葉県条例が非常に問題があるということで先生のご講演をお願いしたところお引受けいただきました。
本当にありがとうございます。
それでは、長谷川三千子先生から約1時間ご講演を頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします。
(拍手)
【長谷川 三千子 埼玉大学教授】
ただいまご紹介にあずかりました長谷川でございます。
今、主催者の方のお話にもありましたように、実は私、今日この会についてのお話を頂いたときには、この男女共同参画社会基本法を作るときの立て役者でいらした大澤真理さんご自身がいらっしゃるので、是非来ないかというお誘いを受けました。
私はもうこれは願ったりかなったりという、そういう思いで二つ返事でお返事を申し上げましたところ、実際にはいらっしゃれないと。
大変がっかりしておりますので、寂しいので、彼女のご本だけ携えてまいりました。
これはここの10年ばかりの間の特に顕著な現象なんですけれども、私ども、いわゆる保守派といわれる人間たちが、さあ、皆さん一緒に議論いたしましょうと、いわゆる革新派と呼ばれる方たちにお声を掛けますと、皆さん逃げておしまいになる。
開かれた保守、閉じられていく革新という、こういう形がここ10年ばかり特にひどくなっている思いがいたします。
ただ、これは私たち自身気を付けなければいけないと思いますのは、どうしてもそういう習慣が付いてしまうと、身内だけに通用するような、そういう言葉で、そういう話をするようになってしまう。
これは、まあ、そういう話し方が身に付いてしまったもので、革新の方たちも嫌がって出ていらっしゃらないんだと思うんですけれども、私はいつも、どんなところでお話をするときにも、今ここに全く正反対の考え方をなさる方がいらしていても十分に耳を開いて聞いていただけるような、そういう話をしようと常に心掛けております。
今日も実は、今日私の分担といたしましては、いわゆる男女共同参画社会の基本法に基づく条例を作るときにどういう心構えが必要なのかという原理論というようなところをお話ししたいと思うんですが、その際にも、本当にこの場に大澤真理さんがいらしても、彼女と対話ができるような、そういう姿勢で話をしていきたいと思っております。
今、ここにお集まりの方々は、こうしてわざわざウィークデーに集まっていただいた方々は本当に関心をお持ちの方々と思いますので、男女共同参画社会基本法に基づく条例を作る。
これがどんな重要な意味を持つのかということは既に十分心していらっしゃる方々だと思うんですが、改めてこれがいかに重要な問題なのかということをここで確認しておきたいという気がするんです。
これは大げさでも何でもなくて、本当に人間観そのものにかかわってくる、いわば哲学的な問題につながる、そういう重大な問題だというふうに私はとらえております。
で、どんなふうに重大かと言いますと、ちょっと耳新しい言い方で、皆さん、おやっとお思いになるかもしれませんが、「人間はどこまで生物なのか」という、こういう問題にかかわってくると思うんです。
もう少し正確に言いますと、人間というものが生物であるというその事実を我々はどこまでしっかりと見極めていったらいいのかという、こういう問題にかかわってくると思うんです。
考えてみますと、本当に人間というのは奇妙な生物ですよね。
例えば今はもう本当に冬の真っ盛り、大寒の、この関東地方でさえぶるぶる震えてしまうような寒い日なのに、今ここはもう本当にぽかぽか、一応上着は着ておりますけれども、上着を脱いでも大丈夫ぐらいにぽかぽかしております。
こんなに広い、我々の何百倍もあるような建物の中に座っている。
これ、何とも思いませんけれども、考えてみたら、地球上の生物で、こんなことをしている生物っていませんよね。
アリがアフリカで大きなアリ塚を作るなんていってびっくりしますけれども、でも、その中にこんなすごい暖房や光があって、そしてお昼間の青空の下のような、そういう生活を楽しめる。
こんな生物はほかにいませんね。
それから、例えば成田に行ってみれば、本当に人間は、我々一人一人2メートル飛ぶのがやっと、多分皆さんの中に2メートルの高さを飛べる方はいらっしゃらないと思うんですけれども、そんな生物があっという間に1日足らずで太平洋を飛び越えてしまえる。
本当に人間というのは考えてみると、もうスーパー生物、ウルトラ生物と言ってもいいような、そういう極めて特殊な生物です。
でも、では我々は本当に生物であることを脱し切ってしまったのかというと、決してそんなことはありません。
生まれ出て、育って、そして年老いて、やがて死んでいくと。
もうどんな生物もこういうサイクルをたどっていくわけですけれども、我々もそのサイクルを全く逃れることはできません。
私ももう本当にそのサイクルの大分終わりの方に差し掛かって、一生懸命髪を染めて入れ歯を入れてごまかしていますけれども、やっぱり生物としての在り方というものを逃れるわけにはいかない。
まあ、言ってみれば人間というものはスーパー生物であるという在り方と、でも、やっぱり生物であるという、この二つに常に引き裂かれて存在しているという、そういう存在者だと言ってもいいかと思います。
で、哲学者というのは、言ってみればその両方を常に眺めながら暮らして生きているわけでして、そういう意味で、人間がどうしても生物として「死」というものを逃れられないと、そういうふうなことがもう二千数百年来、哲学のテーマになってきたわけです。
ただし、それだけではないんですね。
人間が生物であるということに付随したもう一つ非常に大事なことがある。
これは何かというと、人間もまた雄と雌がいて、そして子供を産んで育てていく、そういうほ乳動物の1種類だということなんです。
これは余り古今東西の哲学者も注目してこなかったところなんですが、実は今まさにこれが問題になっているところだという気がするんです。
この男女共同参画社会基本法、ちょっと勉強なさった方は、今いわゆる「ジェンダー」という片仮名言葉なんですが、これが問題の焦点になっているということをあちこちでお聞きになっていらっしゃると思います。
この千葉の条例でもジェンダーという問題をどう取り上げるのかという、このことが大変大きな争点の一つになっております。
私は言ってみれば、この男女共同参画社会基本法の問題点はジェンダーという問題をどう考えるのか、ここに尽きると言っても大げさではないんではないかという気がするんです。
では、そのジェンダーというものはどういう考え方なのか。
これを今ちょっと簡単に、皆さんにとっては復習というような感じになると思いますが、改めて皆さんにご紹介してみたいと思いますが、これは基本的にはこういうことなんです。
確かに人間も生物であると。
で、その生物である、だから男性がいて女性がいる。
性別がある。
パスポートにもちゃんと性別が書かれる。
それはもういわば生物学的な事実、最低限の事実であって、例えばオリンピックでセックスチェックをするときには、ちょっと舌の後ろをこすり取って顕微鏡で見て、XY染色体があるか、XXであるか、それを見るという、本当に生物学的な、人間の力ではどうしようもない区別がある。
それがセックスという区別である。
ただし、我々が今こうやって普通に社会生活を営んでいるときに、例えば今こう見渡しても、ああ、女性の方は何人と、こう、すぐ外から見て分かりますね。
いちいち側に寄って、ちょっとすいません、染色体を見せてくださいなんてやらなくても、女性の方は女性の方、男性の方は男性の方、着ていらっしゃるお着物の色からも、髪型からも、それから仕草からも大体すぐ分かるという、こういうふうになっています。
で、そういう違いはどこから出てきているのかというと、これは決して単なる生物学的な性別ではなくて、そのあと社会的文化的に出来上がってきた、男性の方は背広をお召しになって、これもちょっと何か背広みたいですけれども、よくご覧になるとスカートをはいております。
そんなふうに、男性と女性で着る服が違う。
それから、いろんなお祭りの中でも男性の役割、女性の役割、様々に決まっている。
人間の生活のありとあらゆるところで、男性のもの、男性のやり方、女性のもの、女性のやり方、それが決まっている。
それがジェンダーの区別であると。
これが一番常識的な区別と言っていいかと思います。
で、この例えば大澤真理さんのご主張になっていらっしゃるような考え方というのはどういうものかというと、先ほど言ったスーパー生物、ウルトラ生物という言い方を使わせてもらいますと、人間というものはそもそもスーパー生物であり、ウルトラ生物である。
ここが人間の尊厳である。
だから、できる限り生物学的な性差なんていうものに足かせをはめられずに、スーパー生物振り、ウルトラ生物振りをみんなが発揮しなければいけない。
だから、後から社会的に出来上がった男女の差であるジェンダーというようなものは、もうできる限り振り捨てていくのが一番である。
そうするとそれが日本の活性化にもつながって日本再生の鍵であるというふうなことをおっしゃっていらっしゃるわけなんです。
これは、実はそれだけ聞くと、ああ、なるほどという気もするわけです。
日本人の人口が1億あって、今、大体その半分しか日本活性化のために働いていない。
そのあと半分が全部活性化されたら、これは日本再生になるんじゃないかと、だれでもそんなふうに思いたくなってまいります。
そういうちょっと見、なるほどと思わせられるような議論に惑わされないためにはどうしたらよいのかということを今ここでもう一度振り返ってみたいと思うんです。
実は、先ほど言ったように人間が生物であるというその事実は、単に人間がいつかは死ぬものであるという、そこだけに現れているのではない。
子供を産んで育てて、そしてそれを繰り返していかないと人類はたちまち滅んでしまう。
そういう意味ではどんな生物とも同じなんだという、そこにもう一度焦点を当てて考えてみたいと思うんです。
ここで、では肝心の生物たちはどうなっているのかと振り返ってみますと、実はこれが我々が想像するよりもはるかに彼らは文化的なんですね。
というのはどういうことかと言いますと、例えば子供を産んで育てる。
鳥だったら卵を産んで温めるというところから始まるわけですが、それは決して単に雄と雌がいればそこで卵が産まれる、そこで子供が産まれるというものではないんですね。
それぞれの生物のそれぞれの種に固有の、まあ、言ってみれば「繁殖の作法」というようなものがあるんです。
例えば面白い例をご紹介しますと、オーストラリアにはアズマヤドリ、日本語で訳した名前なんですが、アズマヤドリと呼ばれる種類の鳥がいるんです。
カラスよりもちょっと小さいくらいの大きさの鳥なんですが、この鳥が自分の身長よりも4倍ぐらいあるような東屋(あずまや)、簡単な作りなんですけれども、それを木の枝で作り上げるんです。
で、いろいろきれいな、ちょうどこんなブルー、これをもうちょっと鮮やかにしたようなブルーの鳥とか、あるいは白地にちょっと赤の入った種類、いろんな種類があるんですが、その自分の羽の色に合わせて、それにそっくりな木の実とか花とかを取ってきて、その東屋の周りに飾り立てるんです。
それをやるのは雄だけなんですね。
そして自分の立派な東屋を作って、きれいな飾り付けをして、そしてそこで雌が来るのを待つんです。
そうすると、雌は枝の上からそれを見ていまして、あっ、この東屋がきれいだと思うと、その東屋の中に入っていくんですね。
しかも、それだけではないんです。
雌が東屋に入ってくれたと見ると、雄は今度は自分で伴奏、チッチッチッ、チッチッチッと付けながら、その周りをこう、きれいな羽をできるだけ見せびらかすようにしてぐるぐる踊って回るんです。
それだけもうエンターテイメントをして、雌がうっとりして、初めてそこで結婚式が成り立つという、言ってみれば人間だったら簡単に、ちょっと今度劇の切符、ミュージカルの切符が手に入ったから一緒に行こうよと言うので済むところが、このアズマヤドリはまず劇場を作り、自分が音楽もやって、自分が踊って、そして気に入られたらという、大変な手続を取るわけです。
これはもう何というか、本当に文化と呼ばなければ失礼じゃないかという気がしてくるような、そんな作法を取らないと、このアズマヤドリは繁殖ができないわけなんです。
じゃあ、一体何でそんなことをするのかと生物学者に聞きたくなるんですが、生物学者も何でということは答えられないんですね。
もう本当に、生物って不思議なものだなと考えるよりほかないようなことなんですが、そこまで複雑にならなくても、ほとんど、ありとあらゆる動物たちがそれに似たような、例えば赤カンガルーだったら雄同士がお相撲をして力比べをして勝者を決定すると、そういったような様々な作法があって、そこで初めて繁殖ということが成り立っているわけです。
そうしてみると、何か動物たちにもジェンダーという言葉が使えそうだという気がしてきます。
ただ、一つ大きく違うのは、動物たちの場合には大多数の場合、だれに教えられなくても、何か年ごろになると雄は東屋を作り始めて、だれに、学校で教わったわけでも何でもないのに自分で飾りを集めてくるということをするんですね。
これを普通、我々は本能と言っているわけなんですが、本能という言葉がそこにまで使えるほど、そういう複雑なことまでが動物の場合には脳の内にインプットされている。
ところが人間の場合にはそういう複雑なことをするためにはどうしても何らかの教育が必要なんですね。
教育というのはこれは必ずしも学校で教わるということだけではない。
親たちを見ていて、ああ、こういうふうに振る舞うんだなというふうに心得ること。
あるいは周りのみんながしていて、自分も見て、ああ、これは素敵だなと思って自分もやる。
そういうことは全部教育に含まれるわけですが、人間の場合にはそういう教育、広い意味での文化的伝承というものがないと、そういう複雑な作法を身に付けることができないわけです。
これを実は我々はジェンダーと呼んでいるわけです。
ここで、ここから先は難しい話になるんですが、人間の場合に、果たしてこういう、アズマヤドリのようなそういう繁殖の作法というもの全くなしに、雄と雌をおりの中へ入れておけば自然に子供ができるというような、そういうものなのかどうか。
それとも、人間はそれこそ高級な動物であるから、もっともっと複雑な形で繁殖の作法というものが必要なのか、どっちなんだろうかということになるわけです。
これは常識で考えれば、こういう、いろんな動物の文化的な振る舞いというものは、高級な動物になればなるほど複雑になっていくわけですね。
そういう意味では、人間がそういう繁殖の作法というものなしに過ごせる、そういう生物だとは思われない。
現に我々自身が200年前、300年前のいろんな文学作品を見てみると、そこにいろんな様々の繁殖の作法の物語があるわけです。
もちろん我々は繁殖の作法の物語なんて言わないで、それを恋愛小説と言ったりするわけですけれども、しかし、生物学の目で眺めてみると、ああ、なるほど人間というのはそれぞれの時代、それぞれの地域によって、いろんな様々の型を作りながらそういう繁殖の作法というものを自分たちで作り上げ、かつ守ってきたんだなということが分かるわけです。
ところが、この男女共同参画社会基本法というものは、まさにそういう人間が本能を持っていないから、その代わり文化的に社会的に教育して作り上げてきたそれを壊そうという、これが一番基本に潜んでいるところなんです。
これは基本法で申し上げますと、第4条のところにかすかに表現されているところなんですが、ちょっとその条文を読んでみますと、こういう条文になっております。
社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない。
これだけすらっと耳から聞いただけでは何を言おうとしているんだか分かりにくいんですが、例えば今のアズマヤドリに翻訳してみますと、こういうことなんです。
社会における制度又は慣行というのは、例えばアズマヤドリの場合には雄だけが東屋を作り、きれいに飾り立てる。
そういう創造的な文化活動をするということになるわけです。
こういう慣行があって、雌たちはただ専らそれの鑑賞者である。
これはけしからんと。
本当の男女平等ではない。
だから、そういう慣行があろうがなかろうが、男女が社会における活動はそういう昔からの習慣に惑わされず、縛られないようにしなければならない。
つまり、雌もせっせと東屋を作って、せっせとその東屋を飾り立てて、さあ、雄も雌もみんな東屋を作る。
それですばらしいアズマヤドリの文化が花咲くと思うと、はっと気が付くと、あっ、そこに来てそして雄と結婚するその雌がいなくなってしまったということになる。
まさに、それをしようと言っているのがこの男女共同参画社会基本法の第4条ということになるわけです。
これは本当に一番根本的なところで男女が共同参画しなければならない、その生物としての大事な営みをどこかに蹴っぽってしまった、そういう考え方というほかないと思うんです。
実はこの男女共同参画社会基本法というものはいろんな紆余曲折をたどって出来上がっているものだと言っていいと思います。
もちろん、片方にはこの大澤真理さんのように、まさにそういうジェンダーという区別、これを退けるためにこういうものを作った。
これまでのいわゆる男女平等というものは、彼女たちの目からすれば、いわばその男性と女性というそういう区別がある、その生物学的な区別は置いておいて、そして、ただウルトラ生物、スーパー生物としてのその領域の中での男女平等を実現しようという、そういう話であった。
だけれども、自分たちはそのスーパー生物、ウルトラ生物の領域をもう人間の社会のありとあらゆる全領域に押し広げるんだという、こういう考え方を持っていらっしゃる。
まさにその家庭という繁殖の支えである場、それ自体がもうまさにジェンダーの巣窟ということになるわけですから、これももうスーパー生物、ウルトラ生物の観点から、全部ばらばらにしてしまって、人間が究極的には1個1個の個人として生きられるような社会を作らなければいけないということを本当にはっきり、この本の中で言っていらっしゃいます。
そういうラディカルな考え方というものと、それからもう一つ、これまでどうしてもフェミニズムというものは専ら女性の観点から女の権利を広げる、女たちが自分の不満をぶつける、そういう観点からしか運動がなされてこなかった。
でも、それではやはり本当に人間の社会全体を良くするというその目的にはかなわないだろう。
男性と女性がどうやったら本当にうまく人間の社会を運営していくことができるか、そのシステムを考えなければならないという、こういう非常に真っ当な考え方、そういう考え方を背景に持って、この共同参画社会基本法づくりに関与したという人を私は現に知っております。
その中で、どういう熾烈な戦いがあったかどうかは分かりませんが、結果としてここに出来上がった共同参画社会基本法というものは、一方で人間をもう本当に全部スーパー生物、ウルトラ生物としての在り方としてとらえてしまおう。
もう人間が繁殖の作法が必要だ何だ、そんなことはもう全くかまっていられない。
とにかく、このスーパー生物としての文明の発展というものを一直線に進めていかなければいけないという、こういう考え方というものが確かにこの基本法の中には生き残っています。
と同時に、先ほど申し上げたような、いや、人間はやっぱり本当に男性と女性というその二つの性によって成り立っている生物である。
で、そのことは幾ら人間の文明が進んでも大切にしなければならない我々の大切な基本的事実であり、基本的存在の根本であると、そういうことを見つめながらやっていこうという考え方とがもう一緒にこの中に詰め込まれているわけです。
そういう基本法を基に各都道府県で条例を作っていくということは、これはまた大変難しいことなんですね。
残念ながら私が奉職しております埼玉の埼玉県条例というのは、その意味ではもう非常にそのジェンダーを破壊し、人間を単なるウルトラ生物としてとらえるような方向にむしろ基本法を推し進めてしまったような、そんな条例が出来上がってしまいました。
私自身、今、さいたま市の市の条例づくりにかかわっているんですが、これは県条例がびしっと出来上がっていますと、市の条例でこれを真っ当な方向に戻すというのは、これはもう本当に至難の業で、大体25人ぐらいいます審議委員の中の、そういう考えを持った人間は私一人だもんですから、いつも会長さんが、ああ、また長谷川が発言するといった顔で、もう時間がありませんから2分だけなんて言われて苦労しておりますけれども、そういう苦労になってしまうんです。
ですから、本当に県のレベルでしっかりと、人間はやはり男性と女性のある生物である。
そのことを無視したら人類は生き残れない。
しかもジェンダーというのは、本能を失ってしまった、失ってしまったとは言いたくないんです。
本能が大変薄くなってしまった人間においてはとても大事な拠り所である、そういうジェンダーを大事にしていかないと、人間は本当に生物として生き延びることができなくなってしまう。
この観点を忘れない県条例を作るということ、これが非常に大事なことだという気がするんです。
例えばここで、ことに千葉県の場合、皆さんもご承知のとおり、リプロダクティブ・ヘルス(reproductive health)、本当に舌をかみそうですが、リプロダクティブ・ライツ(reproductive rights)という、こういう二つの観点が問題の一つの争点になっております。
この争点を、細かく条文をどうしろこうしろというようなアドバイスを申し上げるんではないですが、この問題について、今申し上げたような観点からどう考えたらいいんだろうかということを、ちょっと、まあ、いわば応用問題として申し上げてみたいと思うんですが、こういうことだと思うんです。
このリプロダクティブ(reproductive)、再生産とこれを漢語で訳してしまいますと、何か工場で人間が生産されてくるみたいで変な感じがしますが、要するに今申し上げた、人間も生物である以上、子供を産み育て、またその子供が自分の子供を産み育てるというそのサイクルがなければ人類が滅びてしまうというその問題が一言リプロダクティブというその言葉に表されていると言っていいわけです。
それについて、そのヘルスを問題にすると。
これはどういうことかと言えば、本当に人間はただ生き延びていくためにも健康でなければならないわけですけれども、そういう更に自分の次の世代の生命を産み育てるという、このことのためには本当にピッカピカの健康が必要です。
私自身二人子供を産んだときのことを思い出してみますと、ああ、若かったからできるんだなという感じがいたします。
もう9か月ぐらいになると、本当にこんなになって、お相撲さんみたいな格好をしてよたよた歩いているんですが、実際もうそうなると、自分の内臓なんて本当に体のどこにあるのかなという感じなんですね。
もう体中がもう一人の生命を支える道具になったような格好で歩き回っているんですが、しかし、それでも恐ろしいもので、若いときにはそれで何とも思わず、普通に仕事をして、歩ける。
もちろん走ったりなんかはできませんけれども、それでやっていけるんです。
ですけれども、これはたまたま私が本当に、たまたま健康に恵まれていたからということで、これは例えば今の若い女性がダイエットに走って、もう若いうちから歯がぼろぼろになって骨がやせ細るという、そういうことがいろんなところで心配されております。
若い女性が自分のスタイルだけを考えて、本当のリプロダクティブ・ヘルスを考えずに、食事を制限してやせ細っていたら、次の世代はきちんと生まれてこない。
そういう意味で、若い人たちに、あなた達の健康は自分たちだけのものじゃないんですよ。
これからもう一つの生命を育てる大事な体なんだから。
昔はそういうことは常識だったんですけれども、今は改めてリプロダクティブ・ヘルスが大事だという、これを声を大にして言わないと、若い人たち、いろんなことでこの文明の中で自分の体を損なっている。
そこをきちんとしなければいけない。
そういう意味では、このリプロダクティブ・ヘルスという問題は非常に大事な問題なわけです。
まさに男女共同参画社会基本法として、これは大事な問題としてとらえている。
ところが、問題はリプロダクティブ・ライツの方なんですね。
これはどういうことなのかと言いますと、つまり、確かに一見すると、女性がそうやって大きなお腹をしてよたよた歩く。
これは確かにその人間本人にとってみれば、その限りでは大変つらい、うっとうしいも言えるわけです。
それをもう、もちろん、これまで母親になる女性たちはうれしさというその1字で乗り切ってきたわけですけれども、これをふっと考えてみると、あっ、女性は損じゃないかということにもなるわけです。
こういう、もう、とにかく幾ら男女平等が進んでも、何か月も大きいお腹を抱えてうっとうしい思いをしなければならないのは、これはやはり幾ら医術が進んでも、まあ、あと何十年かは女性の役割であろう。
となると、では女性にはそれに対してノーという権利があるんだという、これがリプロダクティブ・ライツの考え方なんですね。
これはもちろんフェミニストの人たちはこんな言い方はいたしません。
例えば昔、もう次から次へと、毎年絶え間なく子供を産んで、もう歯もぼろぼろになり、健康もぼろぼろになる。
そんなふうな女性の虐げ方はやめましょうということでリプロダクティブ・ライツ、ヘルスという問題があるんだなんて申します。
ですけれども、今の日本に、はっきり言ってそんな状況はありません。
今の日本にあるのは、自分がもう少し仕事を続けたいから、足手まといになる妊娠、出産ということは避けたいという、そういう女性の、はっきり「わがまま」と言わせていただきますけれども、それをどこまで許容するかという、そういう話になってくるわけです。
ここで本当に難しいのは、つまり、そういう、今、私は女性のわがままと言いましたが、そういうわがままというものが例えば200年前ぐらいの女性を考えてみて、あったろうか。
恐らく、もう子供を授かるというそのことの有り難さということを中心に考えていただろうという気がいたします。
この100年間、20世紀の1世紀の間に、我々は既に本当にジェンダー的な文化というものを失っております。
そういう人間の在り方を中心に考えてみると、ああ、じゃあ女性が子育て、出産を嫌がるのは当然だという、そんな考えが出てきてしまう。
このリプロダクティブ・ライツという考え方は、言ってみれば、もう既にそういう人間が次の世代を次々に継いでいかなければ死に絶える生物だということから、みんなの視線が完全にそれてしまっている、そういう中で生まれ出てきているのがこのリプロダクティブ・ライツという考え方だと言っていいような気がするんです。
ですから、これをもし前面に掲げるとすると、これはもう、これまで日本のどの都道府県でできたよりも、なお一層、この共同参画社会基本法の危険な側面を強調したものになるということが言えると思います。
それについて、実際にこちらの自民党でどういう案をお作りになるか、それはまだこれからの話だと思いますけれども、これに関しては私は絶対に妥協をしないでいただきたいという気がしております。
えてして、今回の共同参画社会基本法の問題に関しては、こういう正論を言う立場というのはいつでも受け身の立場といいますか、何かこの共同参画社会基本法が改革を掲げて、未来に向けての新しい方向を打ち出そうとするのに、いわゆる抵抗勢力としての、後ろを振り向いて、スカートの裾を踏んづけているとか、そういうイメージでとらえられることが多いんです。
もちろん、今申し上げたように、20世紀というこの過去100年間の流れを振り返ってみると、確かに今私がここで主張しようとしているようなことは、その流れのそのスカートを踏んづけようとしていると形容してもらってもかまわないと思います。
ですけれども、振り返ってみると、この21世紀というものは、果たして過去の20世紀の「行け行け、どんどん」、人間というものはもうほとんど生物ですらないんだ。
どんどんクローン人間を作って、そして人工栄養でどんどん人工的な人口、人工的な人口を増やすというのも変な言い方ですが、それで世界を制覇していけばいいんだという、その考えの延長で突っ走っていいものかどうか。
むしろ私は21世紀の入り口に立ったときの、もうこれは日本人のみならず、世界中の人間の反省というものが、20世紀というのはちょっと前を向いて走りすぎた。
もう1回、我々が生物であり、この地球上の中で、地球の恵みを受けて育っている、そういう存在なんだということをしっかり見直さなくては駄目じゃないかという、これが私はむしろ21世紀の入り口に立っての、世界中の人間の反省だったような気がするんです。
ところが不思議なことに、こういうことを言うのがまた何かエコロジストとか、何か片仮名の人達なんですね。
振り返ってみれば、我々が日本人としての真っ当な在り方を考えるというのは、実はまさに今申し上げたような、20世紀というのはちょっとやりすぎだった。
もう1回自分たちの足元を振り返ってみようという、そういう姿勢をそのまま素直に自分たちの生き方にすることが我々の日本人らしい生き方でもあると、そういうことが言えるんじゃないかという気がするんです。
そういう意味では、この男女共同参画社会基本法は21世紀に向けてということを言っているんですが、実は発想は完全に20世紀の発想なんですね。
もう20世紀の発想をそのまま押し詰めて、人間はどんどんクローン人間を作って、そして雄だ雌だ、そういうセックスの区別さえも、これも実は本当にあやふやなものなんだということをフェミニストたちの学者先生たちは言い出しております。
確かにそうかもしれません。
生物というものが有性生殖を営むようになってきたという、これも地球の歴史全体から考えたらごく最近の、その、非常に繊細な生物の営みのてっぺんにあることなんですね。
ですから、それが揺らぎを持っているのは当然のことなんです。
ですけれども、我々はそういう生物として有性生殖を営むに至った、これはもう大変なことなんです。
人間が生物に戻れなんていうと、何かよほど、もう原始人の暮らしに戻れと言っている話だというふうにお考えになるかもしれませんが、実は人間が生物であるということは、この地球上の存在とすると、大変な特権階級であるということなんですね。
ただ、その特権階級であるということにはいろんな制約が付きまとうし、個人個人としては煩わしいな、うっとうしいなと思う、そういうこともたくさん付きまとっています。
ですけれども、その個人的な煩わしさ、うっとうしさというものをそれをまるごと引き受けて、初めてこの複雑な人間という生物の繁殖、存続が成り立っているわけです。
そのことをもう一度振り返っただけで、この共同参画社会基本法の一体どこがおかしくて、どこがおかしくないか、それを見極めることはかなり簡単ではないかという気がいたします。
そういう意味から、この千葉の県条例というものは、是非、これが本当の男女共同参画社会基本法なんだという、そういうモデルを作り上げていただきたい。
そのモデルはどういうものかというと、実はジェンダーというものは、本当に我々、こうウルトラ生物でありながらかつ生物でもあるという、複雑な人間の在り方がバランスを取って何とか存続していく、その何というか、綱渡りするときに長い棒を持ちますね。
あのバランス棒のようなものなんだと、そう心得ていただくと一番いいんじゃないかという気がするんです。
綱渡りする人があんなに長い棒を持っていて、何で、邪魔なんじゃないかと、私は昔思っていたんですよね。
そうしたら、そうではなくて、危うい綱渡りのバランスであるからこそ、あの長い棒をつかむことで、あの細い綱の上を歩いていくことが簡単になる。
で、人間が社会的、文化的に作り上げたジェンダーというのはまさにそういうものではないかという気がするんです。
これを単なるうっとうしさ、束縛としてはねのけていったらどういうことが起こるか。
人類全体が綱から落っこってしまうことになるというふうに私は危ぐしております。
是非、この千葉県では自信を持って、本当の男女共同参画基本条例を作っていただきたい。
そこではジェンダーというものを胸を張って大事にするという、そういう観点を取り入れていただきたいと思っております。
どうもご静聴ありがとうございました。
(拍手)
【司会・谷田川 元 委員長】
長谷川先生、ありがとうございました。
このあとの日程についてご案内いたします。
これから五、六分休憩を取りまして、午後2時から再開させていただきたいと思います。
そして高橋史朗先生に約1時間ご講演をいただきまして、そのあと残り30分で質疑応答という形を取りたいと思います。
それでは、今から休憩を取りますので、どうぞトイレ等、行っていただきたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿