3月11日夕、市原市が定めた避難所でもある市立若葉小学校には、避難勧告を受けた住民が、不安な表情で集まっていた。約2・5キロ北北東に位置するコスモ石油千葉製油所では、午後3時15分ごろの余震でタンクが倒壊し、液化石油ガス(LPG)の爆発が続き、同5時ごろ校内は爆風で窓ガラスが割れ、空は炎でオレンジ色に染まり、熱風が伝わってきた。
「何とかバスを出してほしい」。小湊鉄道の小杉直営業企画課長が受けた市の担当者の声はあせりのあまり、うわずった。一刻も早く、バスを派遣する必要は理解していたが、車庫から避難所に通じる幹線道路の交通渋滞で、到着時間の見通しが全く立たない。何よりも、運行の安全がとても保障できない。要請はその後も繰りかえされた。「どうしたら良いか」と頭を抱えていた小杉課長に、避難所に近いJR五井駅近くにバスが待機しているという情報が入った。東京湾アクアラインの通行止めで運行が取りやめになっていた車両だった。
急きょ、避難所に差し向けたバスは3台。約2・8キロ南東の国分寺台西小学校などへ約200人を運んだ。小杉課長は振り返る。「思っていたほど爆発が広がらず、幹線道路ほど道も混まなかった。本当に好条件が重なった」
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バスによる移動が続く間も、爆発現場では、消火活動が続いていた。真っ赤に焼けた金属製のタンクの手すりが飛び散る。消防車両の赤色灯は破損し、屋根も大きくへこんだ。現実のLPGタンクの爆発とコンビナートの大規模炎上は市原市消防局も初の経験だった。炎と黒煙で、状況把握さえおぼつかない。「最初はテレビ局のヘリコプターの映像を参考に態勢を検討するしかなかった」。同局幹部はそう話す。
火勢の状況を把握可能になったのは、応援に入った北隣の千葉市消防局のヘリコプターから現地映像の電送が始まってからだった。ようやく放水ポイントの指示も可能になり、ヘリの飛べない夜間は、千葉市消防局の高所カメラなどの映像を頼りに、東京都などから派遣された海上の消防艇からの消火も作業も可能になった。
従来、市原市消防局は、海上からの放水は想定しておらず、消防艇も保有していない。同局幹部は「海上からの消火は想定外で、ヘリのカメラがなければ、消火の指示さえ出せなかったかもしれない」と話す。
火災は10日後に鎮火し、タンク17基が損傷した。県によると、最大の飛散物は、隣の製油施設に落ちた約10メートル四方の金属製タンク殻。最も遠くまで飛んだのは、長さ180センチ、幅40センチの金属製の板。約6・2キロ離れた幼稚園近くの民家の庭に落ちたが、重軽傷者は製油所周辺にいた6人にとどまった。この幼稚園に孫が通う女性(64)は「ここまで破片が飛んだなんて知らなかった。子供にあたっていた可能性もある。恐ろしいことです」と話した。
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市原市防災課によると、従来、市消防局とコンビナート内の各企業と連携した訓練は実施していたが、コンビナート外にまで被害が広がると想定はしていなかった。住民を含めた避難訓練も未実施で、地域防災計画の想定を超えた。同課の柴田孝課長は「災害ごとに避難所を変えたり、地域の特性に応じた避難マップ作りも検討したい。住民への迅速な情報提供の手法も課題」と話す。
たまたま近くで待機していたバス。タイミング良く応援に入ったヘリに装備されていた映像電送システム。そして、幸運にも人にはあたらなかった飛散物--さまざまな偶然が重なり、人的被害の拡大が免れたようにもみえる。【森有正、荻野公一】=つづく
大震災からまもなく1年。原発事故や津波災害など「想定外」の連鎖が被害を拡大させたという分析が続いている。万一の「想定外」を少しでも小さくするべく、社会は想像力を発揮しているのか。「安全」の先にある「安心」を得ることはできるのか。記者たちが、隠れたリスクを再検証する。
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